キラは本当に頭がよかった。そして、他人にものを教えることも上手かった。でも、劇的に成績が上がるということはなかった。母さんは、それでも以前の全くやらなかったころに比べたら格段の進歩だといって喜んでいた。
俺は毎日キラの家に行っていたので、毎日キラに勉強を見てもらっていた。それなのにあまり成績が上がらないのには、わけがある。
 キラのせいだ。
 例えば、キラが問題の解説をしてくれるとき。キラはノートに視線を落とし、桜貝のようにかわいらしい爪のついた白い指で、なにやら書いている。そうしていると、キラのまつげの長さや、さらさらの髪、細い肩などがよく分かるので、俺はいつもキラを凝視してしまう。説明してくれる声は波紋のように部屋に広がって、俺は自分がその声に包まれているような気がしてくる。キラという温かいものに満たされて、いい気持ちで眠たくなる。
「……で、こうなるんだよ。わかった?」
言われて、俺はあわてて頷くが話など全く聞いていなかった。ぼおっとし過ぎて、果たして数学の説明をしてくれていたのか理科の説明をしていたのかさえ、よく分からない。
 ほぼ毎日こんな調子だった。俺が唯一真面目に聞いていたのは、キラの唇が難解な問題の解説からはなれて、キラ自身の話をしてくれるときだけだった。俺がキラの昔の話を聞きたいと言うと、聞き終わったらちゃんと勉強をする、という条件で話してくれた。
 その話は、主にキラの妹であるカガリの起こしたひどい失敗談だとか、それによってキラが被った害だとかだった。でも、カガリのほかにもう一つよく出てくる名前があった。そいつの名前が出てくるとき、キラの表情が本当に楽しそうなので、俺はいつも悔しかった。
「アスランはねぇ、本当に顔がキレイなんだよ。髪はすっごい深い黒でね、ちょっと青みがかってるの。目は緑。で、頭もよくて優しくて、本当にすごいんだよ。カガリもアスランには敵わないみたいだったし、学校の先生とかにもすっごく信頼されてたしね。」
「ふ〜ん。でもそんなふうに欠点のない完璧人間みたいなのって、気持ち悪いじゃん。」
いつもアスランの話が出ると、俺はこんな風に嫌味なことばっかり言ってしまう。
「そう思うでしょ?それがね、アスランて欠点だらけなんだよ。人見知りは激しいし、感情表現は下手だし、何よりもすっごく口うるさいんだよ。僕と同い年の癖して、もう小姑って感じ。」
キラの口から"小姑"なんて言葉が出て驚いた。すごくお金持ちで、庶民とは区別されて育ったて感じなのにキラの語彙には時々おかしなものが混じっている。
「はあ?小姑って…。それにそいつ先生に好かれてたんだろ?人見知りが激しいのに?」
「そこ!そこなんだよ!アスランはねぇ、顔がすっごくイイからそれで周りを騙してるんだ!例えば初対面の人とかに会ったときとかに、アスランは人見知りしてて何言っていいかわかんないから、とりあえず挨拶だけしてあとはずっと黙ってるの。でも周りの人はそれ見て、寡黙な美少年だと思うんだよ。僕とかにはすっごくずけずけ言うくせに、普段は"僕は物静かな男です"って顔して静かにしてるの。女の子とかもすっかり騙されちゃって告白とかすごかったしね。」
「ええ?何だよそれ!嫌なやつじゃん。」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね。不器用だからさ。騙してるとかは言葉の綾で、要するに他にどうしていいかわかんないんだよ。その代わり、一度仲良くなるとあれほど頼りになる友達はいないよ。僕は好きな科目と苦手な科目がすっごくはっきりしてて、苦手な科目ってのは見るのも嫌なの。だから提出期限とか決まっててもぜんぜん守らない、ってかやらないの。でもアスランは真面目だから苦手だろうと嫌いだろうと、ちゃんとやるんだよ。しかも宿題の出た日にちゃんと。で、僕にちゃんとやったか聞いてくれるの。僕は当然やったやった、って答えるじゃない?」
「そりゃあ、やってないとは言えないしな。」
「でしょ?ホント、アスランの五月蝿さは半端じゃないからね。心を許した相手には口うるさくなるんだよ。やってないとか言ったら、その日は出来るまで離してくれないよ。で、まあアスランも僕が全部やってるとはさすがに思ってないけど、ちょっとはやってるだろうと思うんだよ。いっつも僕は全然やってないのにね。」
「何?そいつ学習能力ないんじゃないの?」
「あはは。そうじゃなくて、あんまり真面目だからさ。いつも期限守らなくて僕は先生にしかられるわけじゃない?だから毎回『前のときあれだけ怒られたんだ。今度こそ少しはやってるだろう』と思うんだって。結局期限守らなくて先生に怒られて、アスランにそれがばれてまた怒られるんだけどね。でも、アスランはその後いつも僕の宿題を手伝ってくれるんだよ。完全に僕の保護者みたいになってたもん。」
「いつも俺にえらそうに勉強しろとか言うくせに、自分だってやってなかたんじゃん。」
"アスラン"の話題に飽きて、俺はちょっとすねてみせる。
「僕は苦手なのだけやらなかったんだよ。他のはちゃんとやってたし、テストではちゃんとそれなりの点取ってたしね。シンはどの科目の全然じゃない。このままじゃキミの将来が危ないよ。」
可愛い顔をして、失礼なことをずけずけと言ってくれる。
「ほら、話聞いたらやるんだろ?ほら。僕の顔見てないで、問題集を見なさい。」
 

 その晩、夢を見た。最近は毎晩キラが夢に現れる。でも、こんなにひどい夢を見たのは初めてだった。自己嫌悪というかキラへの罪悪感と言うか、そういったものがごちゃ混ぜになったひどい気持ちだ。そんな気持ちになったのは、夢のせいばかりではない。いや、厳密に言うと夢のせいなのだが、その夢の結果起こった肉体的な現象が、俺に史上最低の目覚めを味合わせてくれた。
 俺は、夢精していた。
 始めは幸せな夢だったのに。

 俺とキラはいつもの部屋に二人で居た。俺たちは楽しくしゃべったりお菓子を食べたりしていた。しかし、急にキラが咳き込みだした。以前に一度だけ、キラの発作を見たことがあったので慌てはしなかった。でも、だからといって俺に何か出来るわけではないので、大声でマーナを呼んだ。どころが、呼ばれて勢いよく扉を開けたのはマーナではなかった。
 それはアスランだった。
 俺はアスランを見たことがないくせに、それがアスランだとすぐ分かった。なんたって俺の夢だからだ。黒髪緑目の気障ったらしい優男が、マーナのエプロンをつけてキラに駆け寄った。
「キラ!大丈夫?俺が来たからにはもう大丈夫!さあ、上着を脱いで。」
なぜ上着を脱ぐ必要があるのかはわからない。でも、キラはおとなしくされるがままになっている。
「キラ、胸が苦しいんだろう?大丈夫だ。俺が舐めてやるからな。」
アスランはそう言って、はだけたキラの白い胸に舌を這わせた。
 俺はものすごく驚いて、知らずキラのもとへ走り出していた。しかし、走っても走ってもキラのところには辿り着かない。同じ部屋にいたはずの俺は、いつの間にかはるか遠くにいた。走っても走っても距離は縮まらない。それなのに、キラとアスランの様子が鮮明に見える。
 キラの頬には朱がさし、すみれ色の瞳がなまめかしく潤んでいる。息遣いは荒く、胸を激しく上下させている。そして、そこには相変わらずアスランの紅い舌がぬるぬると行き来している。それが、キラの控えめな尖りを掠めると、ビクンと体がしなった。
「キラ。気持ちいいんだね?ここも、もうこんなにぬれぬれだよ。」
そう言ってアスランの手は、いつの間にかすっ裸になっているキラの前に伸びた。
「さっさわるなあ!!」

と、叫んだところで目が覚めた。
 正直に告白すると、にはそれまで精通がなかったので、これが初めてと言うことになる。初めてがキラ。はあ。俺の未来は暗澹としている。
 夢の内容は、昨日キラの言えに行く前に友達に見せられたエロビデオをそのままなぞっている。はじめて見たエロビデオだったから、衝撃が大きかったのはわかる。でも、なにも相手をキラに置き換えなくてもいいじゃないか、と俺は自分の脳みそを呪った。何が"ぬれぬれ"だ。キラは男なのだから、濡れるわけがないだろう!
 そもそもの原因はアスランだ。あんなやつの話なんか聞いたからこんなことになったんだ。クソ!今日どういう顔してキラに会えばいいんだよ。


 その日はいつもに増して授業が手に付かなかった。唯一得意の体育でさえやる気にならず、先生に怒鳴られた。友達には「まだネンネのシン君に昨日のビデオは激しすぎたのかな〜?」と馬鹿にされるし、最悪だ。取り合えず友達は一発殴り、掃除をサボってさっさと下校した。
 今日はキラの家に行くのをやめようかな。でもそんなことをしたら、母さんがうるさい。でも、母さんがうるさいのはいつものことだし、キラに会ったら変なこと言っちゃうかもしれないし…。
 考えは堂々巡りだ。取りあえずまゆのところに行って、それから考えよう。
 基本的に物事の白黒をはっきりさせたい俺にしては珍しく、問題を先送りにした。

「こんにちは〜。」
 入り口で看護婦さんとすれ違ったので挨拶をしながら入った。マユはこのごろ調子がいいらしくて、機嫌もよさそうだった。
「あ、お兄ちゃん!どうしたの?今日は早いね。」
マユが無邪気に聞いてくる。
「今日は早く終わったんだ。まゆ、今日も調子イイみたいだな。」
「うん。先生もそろそろ退院できるかもってゆってた。」
「そっか!よかったな。」
「うん!まゆ退院したらたくさん遊んでね、おにいちゃん。」
「おう!どこだって連れてってやるぜ!」
実際に連れて行くのは父さんや母さんがだけど。
 マユの退院の話がうれしくて、俺はさっきまでの暗い気持ちを一瞬忘れた。
「あ、そう言えばお母さんがこれお兄ちゃんに渡しといてくれって。はい。」
マユは、ベッドの脇に置いてあった紙袋を俺に手渡した。
「キラさんに渡しといて、だって。なんか、これ読みたいって言ってたんだって。お父さんが持ってるから貸してあげることになってたって。朝お兄ちゃんに渡そうと思って忘れてたらしいよ。」
それは、パソコンのプログラムの本のようだった。俺は、ほとんどパソコンを使わないからよくわからないけど、確かにそんなようなことをキラが言っていたような気がする。気が重いけれど、仕方がない。「わかった」と言って受け取った。
 それからしばらく話をしていたら、病室に食事が運ばれてきた。トレーを見た途端、マユが「あ!」と言って立ち上がった。
「何だよ?急に立ち上がるな。危ないぞ。」
「お兄ちゃん、ごめん。わたし今日はご飯ヒカリちゃんと食べる約束してたんだった!」
どう言って、トレイを持って病室を出ようとする。
「こら、ちょっと待って。ちゃんと上着着てけよ。ほら。」
俺はマユからトレイを取り上げて、カーディガンを渡した。
「じゃあ俺はもう帰るから、ついでにトレイ運んでってやるよ。階段とか危ないだろ。」
「ホント?ありがと〜。」
マユはエヘヘと笑うと、スリッパをパタパタさせて病室を出た。俺も荷物とトレイを持って付いていった。ヒカリちゃんとやらの病室はひとつ下の5階だった。トレイを並べて置いてやって、あんまり騒ぎすぎないようにな、と言って病院を出た。
 さっき渡された紙袋の紐が、指に食い込んで痛い。俺はなるべくゆっくり歩いたが、病院とは目と鼻の先にあるキラの家には、すぐに着いてしまった。