2
アスランは、一瞬何を言われたのかわからなかった。
きょとんとした顔をして、自分を怒鳴りつけた少年の顔を見た。頭の中で「うるさい」と言う言葉がぐるぐると回る。「うるさい」という言葉の意味はわかる。そう自分の中で確認する。しかし、なぜ自分が突然怒鳴られなければいけないのかがわからない。
キラを注意したのはリサだ。自分は何も言っていない。だが、どう見てもキラはアスランにむけて怒鳴った。今にも飛びつかんばかりの形相でアスランを見ている。
「まあ!キラ。いきなり怒鳴ったりしてはいけません!ご挨拶しなければいけないことぐらい、わかるでしょう?」
さすがのラクスも、様子がおかしいことに気がついた。自分が結婚することに反対していたのは知っているが、この態度はひどすぎる。口調も自然ときつくなった。
「ラクス…。だって、だってラクスが僕のいないうちに結婚したりするから悪いんじゃないか!僕…僕だて楽すと一緒にいたかったのに、父様が絶対に行ったほうがいいって言うから地球に行ったのに!帰ってきたらずっと一緒にいてくれるって言ったくせに、結婚なん…てぇぇ」
ラクスにたしなめられたのがショックだったのか、キラは泣き出してしまった。
ラクスは、まだ家族の温もりの中で生活したがっていたキラを、彼自身のためとは言え半ば無理やり送り出し手しまったときのことを思い出した。地球になんて行きたくないと、泣いているキラを宥めたのはラクスだった。帰ってきたらずっと一緒に居られるからと、確かにそう言って送り出したのだ。
ラクスは、初夜を回避する手段としてキラを使用したことを恥じた。あまりにも賢い子だから、彼がまだ子供だということを忘れてしまっていた。
「ごめんなさい、アスラン。キラにはわたくしがよく言い聞かせますから、許してやってください。大学生とは言っても、まだ13の子供です。久しぶりにわたくしに会ったものだから、気が高ぶっているんだと思いますわ。」
「いや、気にしてませんよ。それより、今日はもう寝たほうがいいのでは?僕は自室で休みますから、あちらの寝室をキラ君と一緒に使ってください。」
アスランはしくしく泣いているキラが、かわいそうに思えた。頭脳が優れすぎる子、というのもなかなか大変のようだ。もちろん、これでラクスとの初夜は免れたとの安心する気持ちも、大いにあった。
「よろしいのですか?それでは、今日だけはお言葉に甘えさせてもらいますわ。キラには、明日ちゃんとご挨拶をさせますから。本当にご迷惑をおかけしてしまって、ごめんなさい。」
「いいえ。キラ君も地球からの道のりで、疲れているでしょうから、ゆっくり休んでください。」
「本当にごめんなさい。ありがとうございます。さ、キラ。じゃあ、アスラン。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
ラクスが、まだ泣いているキラの背を促して寝室へと消えるのを、アスランは見送った。
翌朝、アスランは精神的に興奮していたせいか、早くに目が覚めた。窓の外はまだ薄暗い。もう一度ベッドに入る気にもなれず、アスランは寝巻きのままベランダに出た。
ベランダからは、日の昇る直前の、紫色に染まった町並みが一望にできる。少々成金趣味とも言えるこの家も、このベランダからの眺めだけは最高だと、アスランは思った。
手すりにもたれかかって何となく景色を眺めていると、昨夜のことが思い出された。
自分はこれから一生ラクスと人生を共にしていかなければいけない。
まだ24歳の彼には、一生とは途方もなく長い時間のように思えた。今まで父にも母にもずっと逆らわずに生きてきた。結婚だって、父に勧められたから、した。
世の中のこと、家のこと、そういった自分の周囲を取り巻く様々なことに対して、私情を挟まず冷静に対応することが自分に課せられた役目であると、アスランは思っている。今回の結婚は、ザラ家にとって絶対に必要なことであった。クラインの家にしても、最近はあまり業績が芳しくないから、景気のいいニュースは必要なはずだ。父に言われたとき、ためらいがなかったと言えば嘘になる。だが、それが自分の役目なのだからと思い、了承した。ただ、決定事項だとして父に聞かされたことが少し悲しかった。一言でいい。相談して欲しかった。自分は、自分の結婚のことすら考えられない男だと思われているのだろうか。
そんなことはない。そう思った。そう思った瞬間、しかしそれを否定する声が内から聞こえた。それが証拠に、自分は昨夜ラクスとの初夜を免れてほっとしている。結婚すると決めたくせに、やはり覚悟がなかったのだ。
アスランは手すりに背中を凭れかけて、空を仰いだ。少し風が強い。いつの間にか太陽が昇ってきたらしく、空は白く輝いていた。
そのとき、視界の隅で何かが動いた。不思議に思い視線を動かす。丁度朝日を背にしているために、黒い影となってよく見えないが、それは少女のように見えた。スカートが風を含んでふわりと広がっている。この家に女の子はいないはずだ。メイドの娘だろうか。母親にベランダの掃除でも言い付かったのか。
それにしても、なんだか神秘的な少女だ。朝日が後光のように見える。顔はわからないが、小さな頭に細い手足が頼りない。
少女は、アスランのほうにむかって歩き出した。近づくつれて、よく見えるようになる。スカートをはいているのかと思ったが、それは羽織ったガウンだった。少女はまだ寝巻きを着ていた。朝晩はまだ冷えるだろうに、かなり短いズボンをはいている。しかも素足だ。風によってズボンがきわどい位置までまくれあがる。白い太ももや、折れそうな足首が目に眩しい。
なんだか妙な気分になりそうな自分を恥じて、アスランはあわてて目線を足から顔に動かした。
その顔を見て驚いた。
風に流れて、亜麻色の髪が柔らかそうな頬にかかる。どんぐりのような形をしたスミレ色の瞳は、早朝に相応しくどこまでも澄んでいる。形のいい小さな鼻が二つの瞳の下にちょこんとついていて、更にその下には、桜色をした可愛らしい唇が、まるで口付けをねだるように少し突き出ている。
アスランは、天の使いが気まぐれに舞い降りたのかと、本気で思った。
「おはようございます。アスランさん。」
しかし、少女はどこかすねたような、つっけんどんな声でアスランに挨拶をした。アスランは、あれ、と思った。その声には聞き覚えがある。
「昨日はごめんなさい。僕、ちょっと動揺してて…。」
「キ、キラ君?!」
てっきり少女だと思い込んでいた人物は、昨日涙を流してアスランに「うるさい!」と叫んだキラだった。そう言えば、昨夜はごたごたしていてキラの顔を良く見ていなかった。こんなにも整った顔をしていたとは。
「はい。あの…怒ってる?」
キラは、更に一歩足を進めてアスランのすぐ前に立った。そして、パジャマの裾を掴んでアスランを見上げる。その瞳は、今にもあふれそうな涙で潤んでいた。
「ぉお怒ってないよ!!全然怒ってない!全然!!」
涙に潤んだキラの顔のあまりの可愛さに、アスランは慌てて答えた。まだ13歳だというのに、目じりが赤く染まったキラには、壮絶な色気があった。
「ホント?良かった。僕、目が覚めてすぐアスランさんの部屋に行こうと思ったんだけど、怒ってたらどうしようと思って。」
そう言って、キラは照れくさそうに笑った。その笑った顔が、ものすごく可愛い。アスランは目眩を感じた。取りあえず冷静になろうと、キラの顔から視線をはずす。
「いや、あの、それより!あ〜…き、昨日は良く眠れた?」
「はい!僕泣いちゃったから、疲れてそのまま。」
「そうか。良かった。」
それ以上何を言ったらいいか分からなくて、でも沈黙が怖くて、アスランはどうしようかと落ち着きなく視線をあちこちに動かす。さっきから、心臓が踊り狂ったかのように激しく鳴っている。そのとき、ラクスのキラを呼ぶ声が聞こえた。アスランにはそれが天の助けのように聞こえた。
「あ!!キラ君。ラクスが呼んでる。心配かけちゃダメだ。それに、そんな薄着じゃあ寒いだろ?もう戻ったほうがいい。」
「うん。ありがとう。あの、僕のことはキラって呼んでください。これから一緒に住むんだし。そんな他人行儀にしなくていいよ!じゃあ、また朝食のときにね!」
嬉しそうな顔をして、キラは駆けていった。
残されたアスランは、なかなか収まらない動悸に不整脈でも起こったのかと心配になった。顔もなんだか熱い。それに、さっきの自分はまるで普段の自分じゃない。どんなときの冷静沈着でいられるはずなのに、この動揺はなんだろう。やはり病気か?
今まで経験したことのない体の症状にアスランは動転して、キラが最後に何を言ったのかを理解することができなかった。
|