その家は病院の庭のすぐ裏にあった。季節にあわせてさまざまな花が咲く広い庭の向こうに、大きなガラス張りの部屋があるのが病院の庭の垣根からよく見えた。長い間、誰が住んでいるというわけでもないのに、その家は荒れることもなくいつも静かにそこに建っていた。あそこは誰の家なのかと両親に聞いても、お金持ちの別荘か何かでしょ、と言う返事が返ってくるだけだった。
俺の住んでいたところはとても田舎だったので、あんな洒落た雰囲気の建物は他になかった。だから、俺はあの庭と家が気になって、二つ違いの妹の見舞いに来るたびに病院の垣根越しに覗いていた。妹や友達の目には、そんな俺の姿がとても奇妙に写ったらしくて、何度もストーカーみたいだから止めろと言われた。誰も住んでいないのに、ストーカーも何もないだろうと思ったが、他にもあの家のことを気にする奴が表れたら嫌だったので、それからは彼らに見つからないように見舞いの帰りにこっそりと覗くようになった。
そんなふうだったから、そこに人が越してきたということを知ったのは、村で俺が一番初めだった。
「えぇ?お兄ちゃん、もう帰っちゃうの?」
妹のまゆの病室が、窓から差し込む夕日でオレンジ色に染まってきた。テレビの横に置かれた時計を見ると、そろそろ今日の面会時間も終わりだ。そう思ってまゆに、じゃあまた明日なと言って椅子から腰を上げたら、不満そうな声で言われた。まゆは小さいころからずっと入退院を繰り返しているので、帰りがけにこんなことを言って、見舞いに来た俺や母さんを困らせることはほとんどないのだけれどやっぱりまだ8歳なのだ。家族と離れて、一人で眠るのは寂しいのだろう。顔を見ると、目に涙を浮かべている。
困ってしまった。どうしよう。
涙に負けてまたベット脇の椅子に座りなおしたとき、看護婦さんが入ってきた。
「あら、シン君。そろそろ面会の時間は終わりよ。早く帰らないと暗くなっちゃうわ。」
「あ、はい。でも…」
俺が言いよどんでいると、看護婦さんは察してくれたようでまゆに向き直った。
「まゆちゃん、シン君帰っちゃうの寂しいけど、明日またすぐ来てくれるわ。まゆちゃんはご飯食べてお風呂に入って早く寝なきゃ。そうしたら、病気なんてすぐに治っちゃうわよ。」
その言葉に納得したのか、それとも俺に気を使ったのかはよくわからなかったけれど、とにかくまゆは涙を引っ込めて笑顔を見せた。
「うん。お兄ちゃん、また明日ちゃんと来てね。待ってるからね。」
健気な言葉に、俺はまゆをきゅっと抱きしめて、それから病室を出た。
外に出ると、もう太陽はすっかり西の空に沈んでいた。けれど、東の空に真ん丸な月が出ていて、田んぼと畑が広がる景色を幻想的に見せていた。これなら、あの家もさぞ綺麗に照らされているだろうと駆け足で病院の庭を横切った。
近づくにつれて、俺はなんだか違和感を感じた。なんだか分からないけれど、垣根の向こうの様子がいつもと違うように思えた。そんなことはこれまで一度もなかったから、なんだかドキドキして、全速力で走ってしまった。
勢いよく垣根に近づいたせいで、俺はなんと垣根の直前で石につまずいた。何とか体勢を立て直そうとたたらを踏んだが、逆に足がもつれて垣根の中に突っ込んでしまった。
「いってぇ…。」
上半身は垣根から飛び出ていて、下半身は垣根に埋まっている。バキバキと音を立てて足を垣根から抜き、枝で引っかいたのか、ひりひりと痛む体を起こそうと顔を上げたら、目の前足がぬっと出てきた。
「おわっ!!」
驚いて立ち上がると、今度はその足の持ち主のあごに勢いよく頭をぶつけた。
「いてっ!!」
実際はそんなに痛くはなかったのだけれど、反射的に言葉が出てしまった。頭をさすりながら、かわいそうにも俺の石頭の直撃を受けてしまった相手を見ると、「が」とか「ぐ」とかよく聞き取れないうめき声を上げてしゃがみこんでいた。
「あの…ごめん。大丈夫?」
「う、うん。大丈夫…。」
そう言ってよろよろと立ち上がっ人物の顔を見て、俺は天使が舞い降りた、と本気で思った。
天使は、真っ白な長袖シャツと黒っぽい膝丈のズボンを履いていた。その腰の細さに驚き、ズボンからにゅっと出ている、しなやかでこれまた細い足に驚き、すみれ色の大きな瞳とさらさらの亜麻色の髪と、それらをくっつけている白い顔の小ささに驚いた。
「天使…?」
「は?」
思わず口に出してしまった俺に、天使は俺より少し高い位置にある目を怪訝そうに細めて見せた。そんな仕種もとんでもなく可愛かった。
思わず見とれてしまい、ぼうっと動かなくなった俺に、天使は
「打ち所が悪かったのかなぁ?」
と首をかしげながら目線を合わせてきた。そのとき、
「キラ様?!どうなさったのですか?」
という叫び声が聞こえて、俺はわれに帰った。天使の隣に、エプロン姿のおばさんが立っていた。
「僕はどうもしないけれど、この子が垣根に突っ込んできて怪我をしちゃったみたいなんだ。家の中で手当てをしてやってくれない?」
天使は鈴を転がすような声で言った。声も素晴らしかったが、それより何より、天子の言った言葉に驚いた。
「お前、ここの家に住んでるのか?」
「あ、よかった。ちゃんとしゃべれるんだね。打ち所が悪くて、声でなくなちゃっったのかと思った。」
心から安堵したような顔で微笑んでから、天使は右手を差し出した。
「僕は、キラ・ヤマト。12歳です。今日からしばらくの間ここで暮らすんだ。よろしくね。」
俺は、どうしてだかその笑顔をみたら顔が真っ赤になって、本当に声が出なくなってしまった。それどころか、全身が金縛りにあったように動かなくなってしまった。しかし、どうにかこうにか右手を差し出すことに成功し、ぎくしゃくと握手をした。
「ほら、キラ様。自己紹介ならお部屋でなさればよろしいでしょう。いつまでも、お庭に出ていたら風邪を引いてしまいますわ。さ、あなたもまずはお部屋の中に入って頂戴。」
エプロンのおばさんに追い立てられて、俺は、キラと握手をしたまま気になって気になって仕方がなかった家に、入ってしまった。
俺は、おとぎの国にでも来てしまったのかと思った。通された玄関の床は、なんと大理石でできていた。これを玄関と呼ぶのならば、俺の家の玄関はただの土間だ。ピカピカに磨かれた石の上に、俺の汚い靴が居心地悪そうにちょこんと並んでいる。俺は、自分の靴の同情した。
エプロンのおばさんに「はいどうそ」と出された青い可愛らしいスリッパを履いて、キラの後に続いて廊下を歩いた。壁に飾られた高そうな絵や、そこここに置かれた壺なのか花瓶なのかよく分からないものを通り過ぎて、垣根越しによく見たガラス張りの部屋に通された。
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